u子の山陰便り 河井寛次郎
2006年10月号
今年は陶芸家河井寛次郎(かわいかんじろう)の没後40年。安来は彼の出身地で今でも「かんさん」という愛称で親しまれている。秋のイベントとして市内の美術館やゆかりのお寺、一族に縁のあった旅館など4箇所で作品を展示している。
陶器の大好きな私はさっそく出かけていった。
安来の旧市街の一角にある長楽山松源寺を探し探し尋ねていくと地方都市には何ともなじまないガードマンが交通整理をしていた。日本庭園がある大規模な寺内にも制服姿のガードマンがつったっている。展示会場に入るとここにもいかめしいガードマン。このお寺では「河井寛次郎とその一門展」という企画展が開かれていて、寛次郎作の展示作品と河井一門の作品120点が展示されていた。ガードマンが見張っていて当然の価値の作品と数だ。
河井寛次郎は1890年に安来市で生まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科に入学し板谷波山に陶芸指導を受けた。1912年にバーナード・リーチに出会い、翌1913年には濱田庄司と知り合い親交を結んだ。1926年から柳宗悦らの起こした民藝運動に参加した。この民藝運動の中で寛次郎は、古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようと努めた。
特に各地を訪れて実際に見た手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用重視の簡素な造形に自在な釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して注目を浴びた。
この時期以降、彼は作家としての銘を作品に入れないようになった。文化勲章はじめ多くの名誉を辞退し陶芸家として一生を制作にうちこんだ。こうした寛次郎の生き方は地元の誇りであり、「かんさん」と今でも親しまれる所以だと思う。「寛次郎から薄茶茶碗を直接譲ってもらった」という自慢話が安来周辺では後を絶たない。今、実際に寛次郎の作品だと自認する器も多く、お宝鑑定団の出番が必要かもしれない。
またこの時代に活躍した棟方志功とも親交があり、版画と陶器のコラボの作品展も山陰では開かれる。今回の松源寺の展示品の中にも志功の版画があった。
会場には年配の陶芸ファンも多くおられ、感嘆の声をあげながら作品に見入っていた。もちろん私も穴があかないことをいいことに目を凝らして作品を拝見した。またデジカメで写真を撮っても咎められないから、感動の2作をとった。本当にいいのかなあ??
寛次郎は京都で窯を譲られ、数多くの作品を焼き、現在でも活躍する弟子をたくさん育てた。この窯は現在河井寛次郎記念館になっている。
島根の窯元を訪ね歩くと英国人バーナード・リーチと陶芸職人が並んで撮ったセピア色の写真が飾ってある。島根の窯元は少人数のところが大半で大量生産はできない。その分、温かさと使う人の手に馴染む優しさに満ちた作品が多い。毎日使うコーヒーカップの取っ手は英国で毎朝使うミルクサーバーと同じ形状だ。お母さんが手を滑らせて大事なミルクをこぼさない取っ手にすることをバーナード・リーチは職人に説いたという。寛次郎もまた影響をうけ、また影響を与え、切磋琢磨の中から使う人の気持ちになって陶器を作ったのだと思える。今風にいえば顧客指向、いつの時代でも大事だ。生活の中で使い易い品を作るという考え方は21世紀の今でも生きている。もちろん茶道で使う薄茶茶碗や水差し、建水、茶入れなど素晴らしい品々もたくさんあるのだが・・・
「仕事が見付けた自分 自分を探している仕事 寛」と書かれた木彫の飾り板と「なにかのご縁で」の文字が入る版画が我が家の玄関に飾ってある。いずれも寛次郎の言葉だ。この言葉には説得力がある。仕事に就かない人に出会ったらこの言葉を知らせたいと思う。