u子の山陰便り 娘の門出・父が逝く
2006年12月号

 キャンドルライトの中で娘の笑顔が浮かび上がる。すっかり大人びて世話をやく必要もないし、これからの生活もそれなりに彼女が考えてしていくだろう・・・そんな12月1日の娘の結婚披露パーティだった。忙しいさなかにかけつけてくださった列席のお客様方にいったい何度頭を下げて「これからこそ若い二人を宜しくお願いします」と未来にむけてお辞儀をしただろうか。

 そして4日後、父(主人の父親)がなくなった。長い療養生活の末の旅立ち、91歳だった。
 今回の東京滞在の予定が9日間だったので大きな荷物を整理し送り出し慌しく山陰に戻った。
 山陰の通夜(死者を葬る前に近親者が遺体の側で終夜守っていること)・告別式(死者に別れを告げる式)・葬儀(死者を葬る儀式)は東京のやり方と異なる。山陰の通夜は近親者だけで行う。東京では知人・友人など特に昼間の告別式に都合で参列できない人が焼香にやってくることがあるが、山陰ではこれは稀だ。
 次の日、告別式。これは東京も山陰も同じ。ただ、山陰の習慣は大抵、告別式の当日の朝ないし午前中に親戚の手で出棺、隣近所の人々に送られ火葬場にゆき、火葬が行われ、午後に遺骨をまつり告別式、終わると納骨、夕方近くには初七日の供養となる。父の場合は菩提寺の意向があり、告別式をし、出棺、火葬、初七日の法要となった。したがって納骨は四十九日の予定。
 主人の隣にいてこの日は「故人が大変お世話になりました」と、数えきれぬほど過去に対して御礼を申し上げこれまたお辞儀をした。

 私の場合、両親は高齢だが元気でいてくれるが、親戚、知人、取引先などお通夜や告別式に参列したことは数えきれぬほどある。当然ながらそれはいつも近親者の立場ではなく、焼香に訪れるだけ。焼香の順を待ちながらご遺族の気持ちはいかばかりかと想像するだけだった。今回は喪主が主人の兄、席次はその次が兄嫁、主人、そして私と最前列に座ってお坊様のお経に聞き入った。形は喪服を着て姿勢を正していたが気持ちは宙を舞っていた。
 そのいい証拠が、喪服の帯を自宅に忘れたことだ。台所の手伝いを他の人にお願いし、告別式前に、帯揚げやら、襦袢やら並べて着替え始めて、ハタと気が付いたのは黒い帯がないということ。仕方なくまた洋服を着なおし、主人にそっと耳うちして自宅までとりに帰ってもらった。往復40分。
その間に「あれ、ゆうこさん、着替えたのではないの?」といわれ「帯を忘れてきたので届くのを待っているんです」と仕方なく答えることを繰り返した。「帯がなくてもいいよ」とからかわれ、親戚や従兄弟達に慌て者ぶりがバレた。

 米子市淀江町の山すそに宇田川平野が広がる。昭和になってからこの平野の区画を見直し、土地整備事業をライフワークとして仕切った父。この事業は大化の改新以来の大事業といわれた。現在の宇田川平野の田は大きく区切られ大型トラクターを入れて農作業をするのがとてもスピーディだ。

 父はこの思い出深い平野一帯を天空から眺め、宙低くふわふわと舞う落ち着かない私に、「もうしばらくは娑婆にいなさい」と主人そっくりの笑顔で言いながら去って行った様な気がした。