こうみそだて その7 「母親の健康」
ステロイド離脱を決心したものの、全身に症状が噴出、息を吸うのもやっとの状態で、子育てできるわけがない。約半年、私はベビールームの送り迎えだけするのがやっとだった。あとは、かゆみと闘い、掻いては自責の念に駆られ、お化けのような顔を見ては泣いて、一日を過ごした。
救われたのは、まわりの人々のおかげである。ポジティブな母は、週一回、家事を手伝いに来てくれたが、「色の黒いのがはやっているっていうし(当時はガングロが出始めた頃)、いいじゃない」とトンチンカンなことを言うし、連れ合いの母は心配しながらも、私のステロイド脱出について理解してくれて、けっして「やめたら」とかは言わなかった。F先生は、「私、もう全然動けなくて、病院来るのがやっとなんです…。そのうち、ここまで来られなくなったらどうすればいいですか」との問いに、「その前に治るから大丈夫だよ」と笑って答えてくれた。
一番大変だったのは、連れ合いだろう。残業を断って、毎日、買い物をして帰ってきて、夕食のしたくと子どもの世話。「死にたい」と愚痴る私をなだめつつ、文句一つ言わなかった。これ以上連れ合いに迷惑をかけるのもつらくて、「もう、このままじゃ、いつ治るかわからない。ステロイドを使う」と言ったときも、「せっかくここまでがんばったんだから、もう少しがんばってみたら…」と言ってくれた。反対の立場だったら、果たして彼と同様にできただろうかと考えると、感謝である。
半狂乱になりそうなかゆみも、徐々に、徐々にではあるが治まってきて、一年経つ頃にはずいぶんと回復してきた。まだひどい部分もあったが、なによりステロイドを使わない日々が訪れたことがうれしかった。今思うと、ちょうどよいときに「脱ステ」したものである。もう少し遅ければ、子どもの動きも活発になるし、親子だけの付き合いから子ども同士の付き合いへと広がり、同時に親同士の付き合いへと広がっていく。親子して「社会」に出て行かざるをえなくなるわけで、そのためにはなんといっても母親が健康であるということは本当に大切になってくるからだ。
子を産むことによって、またアトピー地獄を経験してから、私は自分の命について慎重になったというか、無茶はできなくなった。たとえば、青信号がチカチカすると以前は駆け足で渡っていたのだが、「万が一ころんで、車に轢かれたら…」「私が死んだら、誰が子どもの面倒をみるのか…」と思うと足が進まず、きちんと青になってから渡るのであった。道に落ちている石ころを見ても、「もし石に躓いてころんで、足をひねって歩けなくなったら…それより脇からバイクが来てぶつかるとか…」などと、石ころ一つであらぬ妄想を抱き、キョロキョロあちこちを見回し、はたから見るとアブナイ人のようになっていたほどである。こんな神経遣うことは長続きするわけがなかったが、それでも子持ちになる前よりは慎重になったと思う。
さて、子どもは1歳になり、ベビールームを卒業し、4月から私立の保育園に入園が決まった。保育園を選ぶに当たっては、家から通える3園を見学。わが娘も母のアレルギー体質を受け継いでか、卵アレルギーだった。そこで、卵抜きの対応をしてくれるかどうかが選ぶポイントとなった。区立の園では卵抜きの対応をしてくれず、私立2園に絞ったのだが、結局T保育園を第一希望にした。まず、給食の対応が細やかであること(月一回献立にかんする打ち合わせの時間を持ってくれた)、男性保育士がいること(やはり子育ては男性、女性ともにすることが望ましいと思う。単親者の場合は別、念のため)、「外国」の子どもや「障害」のある子どもを受け入れていること(似たような集団ではなく、いろいろな子どもと早くからかかわってほしかった)。この三つが決め手となった。保育園の一歳児の枠は4名。母がフリーランスで仕事をするうちが、よく入れたと思うのだが、夫婦二人で同居家族がいないこと、私がステロイド離脱のため大変な状態がまだ続いていたこと、ベビールームにすでに入所していたこと(実績がある)、保育課に「入れないと困る」旨手紙を書き送っていたことなどが考えられる。
ともかく、まだ私も完全ではなかったがようやく落ち着きつつあり、晴れてわが子も保育園に入れ、バンバイザイといったところだった。しかし、私がよくなっていくと同時に、今度は娘のアトピーがひどくなっていき、さらに母親同士の関係にもいろいろな問題が…一難去ってまた一難…なのであった!!(つづく)