こうみそだて その13 宗教の自由と子ども
思想信条の自由、宗教の自由は憲法で保障されている。何人たりとも、これを犯すことはできない。わかっている。わかっているのだが、子どもがらみで「宗教」が関係すると戸惑うものである。
我が子の通っていた保育園でも、近所に「○△会」という新興宗教の会館があるせいか、信者が多かった。運動会のときなど、子どものクラスが違うのになんでお母さん同士仲がいいんだろう…?と思っていると、「ああ、○△会仲間ね」とうわさに詳しいお母さんが教えてくれたりする。
まあ、人に影響を及ぼさずに一人で信心していればいいのだが、やはり「布教」は大切らしく、連絡網を使って勧誘する例まで生じ、以降、園の連絡網には「私的なことには使わないで下さい」の但し書きが添えられるようになった。
仲のよかったお母さんから、「下の子のクラスのお母さんから勧誘を受けているんだけど、どうしよう」と相談されたことがあり、「はっきり興味ないっていったほうがいいよ」とアドバイスすると、後日そのお母さんがきて、「そう言ったら、きっとバチがあたると言われた」と言う。「ひどいねー」「信じられない」と二人であきれていたのだが、それから何週間後かにこのお母さんは急病で倒れてしまい、長く入院することになってしまった。もちろん、「バチ」が当たったんでもなんでもないが、ひどいのは、今度はお父さんを呼び出して「ほら、やっぱりこういうことになった」とわざわざ伝えにきたらしいということである。妻が入院、幼子を抱え、孤軍奮闘しているお父さんに言うべき言葉であろうか。まさしく暴言。これが「人を救う」宗教であるはずがない。本当に頭にきた。
何を隠そう、我が家のお隣さんも「○△会」の信者(二児の母)だった。会うたびに、「子どもの話もしたいし一度遊びに来て」と言われていて、「では…」とおじゃまするとなんと「○△会」の話。悪いがまったく関心がないこと、困ったときに相談できる友人はたくさんいること、などを話すと、それ以上は突っ込んでこなかった。以降、普通のお付き合いが続いているが、夜な夜な客人(信者?)の訪問があるようで、ドアの開け閉めの音が響いている…。(←ぶきみ)
娘は今小1で、学童クラブに通っているのだが、あるお母さんに「仕事の都合でどうしても6時に間に合わないので(学童クラブは6時まで)、ナミちゃんちにいっしょにマリコを連れていって、預かってもらえないか…」と言われたことがあった。マリコちゃんはしっかりしていて「よろしくお願いします」などとハキハキとしゃべり、お母さんが来るまで30分くらいの間、ナミとおとなしく遊んでいた。このお母さんは、離婚して一人で子どもを育てており、きれいな人で、以前から「何かあればいつでも預かるから言ってね」と声をかけてくれ、私も「ありがたいなあ」と内心とてもうれしく思っていたのだ。
ところが、お母さんが「すみませんでした」と迎えに来たとき、マリコちゃんが走っていって、「ママ、お祈りして」と手を合わせている。お母さんは、私たちを前にちょっとためらったが、右手をマリコちゃんのおでこにかざしていた。「!!」もしかして…。それ以上、お互い何も言わなかったが、たぶん「×□教」だろう。ナミは、マリコちゃんが帰った後、「ママにお祈りしてもらってたねー」とむじゃきに言う。「そうだねえ」としかいえない私。
お隣さんにしてもそうだが、別に、私自身、被害にあったわけじゃない。しかし、あの場面を見てしまっては、ちょっと引いてしまう自分がいる。本人とだけの付き合いならいい。私もこの年で、ちょっとやそっとじゃなびかない自信がある。でも、子どもも絡むとなると考えてしまう。
以前、職場の同僚の妻が新興宗教にはまって、一家離散してしまった例を見ている連れ合いは、「そういう人とプライベートな付き合いはしないほうがいいよ」と、とにかく毛嫌いしている様子。
心が痛むのは、親が信者である子どものことだ。子どもは環境を選べない。親が、「自分は信者でも子どもには子どもの道がある」という考えなら、私は別に問題ないとは思う。子持ちの宗教を信心する親は、ここだけは押さえてもらえたらなあと思う…。
まあ、かくいうウチも、「思想信条の自由」で、事実婚・夫婦別姓。子どもに自分の生き方を押し付ける気はないが、やはりこういう理由でこうしたんだよということは伝えていきたいと思っている。伝えることと押し付けることは違うけど、そういう「環境」のなかで育ったらやはり影響は避けられないだろうなあ。うちも含めてですが難しいところです。(つづく)