「最初の葡萄の木」−北条ワイン−

 葡萄という果物は実そのものの栽培、ワイン製造、料理への利用、ワイングラスやワインまわりのグッズ、ソムリエや葡萄・ワイン作りの学校、観光葡萄園までなんとたくさんの仕事を生み出す果実だろうか。

 山陰フルコースに商品をのせて頂いている北条ワイン醸造所さんは鳥取県の中部の北条砂丘にあります。本格的なワインを製造されて現在の代表山田定廣さんが2代目。息子さんも一緒にワイン作りに従事されておられます。
一体いつ頃からワインを作っておられますか?とご子息の和弘さんに問いかけるとそれは親父の方が詳しいですよ、というお返事。早速父上に伺いました。
「日本に葡萄が入ってきたのは、遣唐使の手によって、といわれていますから、とても古いんですよ」という始まりでした。「実際に、北条に葡萄がもたらされたのは江戸時代の末期(安政年間)らしいです。北条町(現在の鳥取県東伯郡北栄町)にある名家の庭の手入れに入った庭木職人さんが一本の甲州種の葡萄の木をサービスで植えられました。毎年庭の手入れに入った職人さんが、その葡萄の木の手入れの時に剪定した枝を挿し木して少しずつ葡萄の木を増やしていったと聞いています」
何事もこの“第一歩”があるのでしょう。
「で、ワイン作りが始まったのですか?日本でアルコールといえば日本酒。ワインが市民権を得るにはご苦労がありましたよね」とせっかちに問い直すと、いえいえと話が続きます。
「ワイン造りの始まりは葡萄を食べるとすっぱ味を感じます酸(酒石酸)の結晶体(ロッセル塩)が第二次大戦中に兵器のパーツとして必要であったので、軍の命によりワインを造ることになりました。昭和19年のことです。これがワイン造りの始まりです。ロッセル塩はワインを造る過程で出来る副産物です。終戦後はその必要はなくなり当時は今のようなワインは飲んで戴く人もなく売れませんでした。今日のようにワインが普及するまでには長い道のりでした。その間、菜種から油を絞ったり製材業、醤油業、製粉製麺業、食酢(ビネガー)造り等を行って父が苦労してきたのを覚えています。」
北条砂丘では長いも、スイカ、トマト、らっきょう、梨などたくさんの農産物が作られ、どれも美味しいのは、水はけがよく、朝晩の気温差があって栽培に向く環境であることも話の中からわかりました。
「ワインが日本人に本格的にうけいれられるようになったのは大阪万博以後でしょうか、日本人の食生活も変わり、経済的にも豊かになり、海外旅行に行きワインに出会う機会も増えました」
長い間にどんなにかご苦労もあっただろうに微塵も感じさせない笑顔がありました。

「ワインを飲むには・・・といろいろ言われていますが、堅苦しく考えずに好きなように飲むことを勧めます。ただ一応のルールはさっぱりした料理には白、油っぽいと感じる料理には赤です。最適温度はラベルに表示したような温度がよいでしょう。赤は室温、白は少し冷やしてが、原則です。この温度はワインを飲もうとする部屋の室温が季節や建物によって変りますから、気を配るにこしたことはないですね」

「葡萄の栽培にはご苦労がつきものではありませんか」と水をむけると「“葡萄畑は足跡(あしあと)がこやし”と言われます。こまめに畑の中を歩き回り、枝から不要な新芽が出ていないか、枝ぶりを観察して登長枝などの手入れをすることです」
どんな仕事にも通じる時間をかけ、手間をかけ、ていねいに扱うということに通じていました。
その眼差しはまるで子供を見守るような愛情にあふれていました。